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SunSugarSonBlog
三十日鳥と祖父
小笠原で働いていた時に出会った
越前屋さんの演出、振り付けによるダンスが、
今週末から千駄木の小さな蔵で始まります。
詳細はinformationでご覧下さい。
この舞台は、彼女の人柄が本当に良く出ている。
4月の終わりごろ、まだ一ヶ月ほどは小笠原に
滞在する予定だった僕の元に、
一本の電話が入った。
「お兄さんが亡くなったらしいから、実家に電話してあげて」
瞬間、何が何だか判らなかった。
オーナーに断りをいれて洗い場を離れ、
ユースの電話を持って建物の外に出る。
僕の携帯電話は、小笠原では全く使えなかったのだ。
頭の中を様々な憶測がよぎる。
仮に自殺だとして、
正直自分には、兄の死が全く予測できなかった。
そんなにも兄の心の闇は深かったのか。
こんなにも兆しを見せる事無く、
死への欲求というのは育つものなのか。
同じ部屋で育った18年間、
彼は何を考えて暮らしていたのか。
それとも、それは本当に突発的な事故のせいなのか。
だとすれば、兄を襲った死とは
どんな物によって引き起こされたのだろう。
自分がトラックに弾かれそうになった
地元の町のあの場所で、
青い大きなトラックが兄を撥ね飛ばす
決定的な瞬間を想像する。
電話の向こうで、母が出た。
小笠原で家族の声を聞くのはその時が初めてで、
明らかに非日常的な場所で聞く
現実でしかあり得ない家族の声に
妙な違和感を覚えた。
「もしもし、良直だけど」と言うと、
「少々お待ち下さい、今夫と代わりますので」
という答えが返ってくる。
母の精神状態を想像して、
心が冷たくなる思いがした。
やがて父が電話口に出て、
事務的に俺の帰郷の予定を訊ねる。
俺も努めて冷静に答える。
やがて誤解が解けた。
亡くなったのは兄ではなく、
祖父だった。
俺が勤務先の電話番号を家族に伝えて
いなかったために、家族は東京にある
俺の下宿先へ電話をし、
70歳前後と思われる大家さんに伝言、
そこからインターネットをするために
俺の部屋へ通っていた恋人に伝言、
小笠原のユースに伝言が届く頃には、
おじいさんがおにいさんになっていたのだ。
電話口で笑い声が飛び交う。
笑うべきではないと思ったが、
安心しなかったと言えばそれは嘘だ。
そうした経緯もあってか、
祖父の死は、強烈なリアリティを持って
俺の心に迫ってこなかった。
小笠原にいる間は。
その日はたまたま船の出港日で、
(小笠原は週に一本程度しか船の行き来がない)
どうにか通夜に間に合う予定で
僕は船に滑り込むことができた。
同じ船で、小笠原に2、3週間滞在していた
越前屋さんも東京に帰る予定だった。
突然船に乗る事になった僕に、
彼女は何気なく理由を訊ねた。
僕は、祖父の死んだ事を告げた。
大げさな言い方はしなかったはずだ。
その時の彼女の顔を、僕は今でも鮮明に覚えている。
小笠原の強い日差しが彼女の頭に巻かれた
手ぬぐいにあたってできた濃い影の奥で、
二つの目が見開かれ、わずかに濡れて光った。
一瞬で、心の奥まで晒してしまうような、
鋭い悲しみの表情だった。
僕はその時、彼女が自分以上に祖父の死を
実感している事を悟った。
祖父は不器用な人だった。
僕の一番古い記憶は、
怒った祖父が僕の乗っていたアヒルの玩具を
蹴り飛ばす風景だ。
世界が壊れるような恐怖と共に
それは記憶に刻まれたのだろう。
家族みなが祖父の短気な性格を刺激しないように
気を使う毎日だった。
葬式の当日、生前の祖父の話相手だった
隣家のおじさんがこう言ってくれた。
「いい人だったけれど、生まれてきた時代が悪かった、
青春の一番いい時代を全て戦争に奪われてしまった。
だから、次は、もっと平和な時代に生まれ変われるように
お経を唱えておきました」
それまで祖父に対して自分が抱いていたイメージが
その言葉で一気に塗り替えられた。
僕は祖父の育った時代を想像していなかった。
そうしたら、何かが壊れたように涙が出てきた。
そうして初めて、越前屋さんにあの表情をさせた感情が、
自分の中にも起こったと感じたのだ。
OSHOは繊細さに関するインタビューで
次のような事を語っていた。
「なぜ私は繊細なのか?という問いは適当ではない。
なぜなら、人は繊細に生まれ付いているからだ。
子供の内は誰もが繊細である。
だから、問うべきはこうだ。
なぜ私は繊細でないのか?」
彼女は、自分の繊細さを守る術を
身につけてきた人だと思う。
そして繊細さとは、
共感する力の事だ。
そういう人の作っている舞台です。
越前屋さんの演出、振り付けによるダンスが、
今週末から千駄木の小さな蔵で始まります。
詳細はinformationでご覧下さい。
この舞台は、彼女の人柄が本当に良く出ている。
4月の終わりごろ、まだ一ヶ月ほどは小笠原に
滞在する予定だった僕の元に、
一本の電話が入った。
「お兄さんが亡くなったらしいから、実家に電話してあげて」
瞬間、何が何だか判らなかった。
オーナーに断りをいれて洗い場を離れ、
ユースの電話を持って建物の外に出る。
僕の携帯電話は、小笠原では全く使えなかったのだ。
頭の中を様々な憶測がよぎる。
仮に自殺だとして、
正直自分には、兄の死が全く予測できなかった。
そんなにも兄の心の闇は深かったのか。
こんなにも兆しを見せる事無く、
死への欲求というのは育つものなのか。
同じ部屋で育った18年間、
彼は何を考えて暮らしていたのか。
それとも、それは本当に突発的な事故のせいなのか。
だとすれば、兄を襲った死とは
どんな物によって引き起こされたのだろう。
自分がトラックに弾かれそうになった
地元の町のあの場所で、
青い大きなトラックが兄を撥ね飛ばす
決定的な瞬間を想像する。
電話の向こうで、母が出た。
小笠原で家族の声を聞くのはその時が初めてで、
明らかに非日常的な場所で聞く
現実でしかあり得ない家族の声に
妙な違和感を覚えた。
「もしもし、良直だけど」と言うと、
「少々お待ち下さい、今夫と代わりますので」
という答えが返ってくる。
母の精神状態を想像して、
心が冷たくなる思いがした。
やがて父が電話口に出て、
事務的に俺の帰郷の予定を訊ねる。
俺も努めて冷静に答える。
やがて誤解が解けた。
亡くなったのは兄ではなく、
祖父だった。
俺が勤務先の電話番号を家族に伝えて
いなかったために、家族は東京にある
俺の下宿先へ電話をし、
70歳前後と思われる大家さんに伝言、
そこからインターネットをするために
俺の部屋へ通っていた恋人に伝言、
小笠原のユースに伝言が届く頃には、
おじいさんがおにいさんになっていたのだ。
電話口で笑い声が飛び交う。
笑うべきではないと思ったが、
安心しなかったと言えばそれは嘘だ。
そうした経緯もあってか、
祖父の死は、強烈なリアリティを持って
俺の心に迫ってこなかった。
小笠原にいる間は。
その日はたまたま船の出港日で、
(小笠原は週に一本程度しか船の行き来がない)
どうにか通夜に間に合う予定で
僕は船に滑り込むことができた。
同じ船で、小笠原に2、3週間滞在していた
越前屋さんも東京に帰る予定だった。
突然船に乗る事になった僕に、
彼女は何気なく理由を訊ねた。
僕は、祖父の死んだ事を告げた。
大げさな言い方はしなかったはずだ。
その時の彼女の顔を、僕は今でも鮮明に覚えている。
小笠原の強い日差しが彼女の頭に巻かれた
手ぬぐいにあたってできた濃い影の奥で、
二つの目が見開かれ、わずかに濡れて光った。
一瞬で、心の奥まで晒してしまうような、
鋭い悲しみの表情だった。
僕はその時、彼女が自分以上に祖父の死を
実感している事を悟った。
祖父は不器用な人だった。
僕の一番古い記憶は、
怒った祖父が僕の乗っていたアヒルの玩具を
蹴り飛ばす風景だ。
世界が壊れるような恐怖と共に
それは記憶に刻まれたのだろう。
家族みなが祖父の短気な性格を刺激しないように
気を使う毎日だった。
葬式の当日、生前の祖父の話相手だった
隣家のおじさんがこう言ってくれた。
「いい人だったけれど、生まれてきた時代が悪かった、
青春の一番いい時代を全て戦争に奪われてしまった。
だから、次は、もっと平和な時代に生まれ変われるように
お経を唱えておきました」
それまで祖父に対して自分が抱いていたイメージが
その言葉で一気に塗り替えられた。
僕は祖父の育った時代を想像していなかった。
そうしたら、何かが壊れたように涙が出てきた。
そうして初めて、越前屋さんにあの表情をさせた感情が、
自分の中にも起こったと感じたのだ。
OSHOは繊細さに関するインタビューで
次のような事を語っていた。
「なぜ私は繊細なのか?という問いは適当ではない。
なぜなら、人は繊細に生まれ付いているからだ。
子供の内は誰もが繊細である。
だから、問うべきはこうだ。
なぜ私は繊細でないのか?」
彼女は、自分の繊細さを守る術を
身につけてきた人だと思う。
そして繊細さとは、
共感する力の事だ。
そういう人の作っている舞台です。
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