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SunSugarSonBlog

夢に関する省察


2010/03/23 12:35  Permalink   del.icio.us livedoorクリップ Yahoo!ブックマークに登録 Buzzurl このページを行き先登録

少し、思うままに書いてみたいので、キーボードに向かう。
最近は、こういう場で何を書くか、事前に練るような事はなるべく
せずに、できる限り即興的に書きたいと思っている。
今自分の中にどういう思いがあって、
それがどのような形で出てくるのか、
書く前はわからなかった事が、書く事でわかったような気がする。
そういう変化を楽しみたいと思う。
でもそれは、楽しむというより、もっと根源的な、
必要に迫られてやっている事のような気もする。

さて、主題になりそうな事柄もとりあえず思いつかないので、
まずは近況報告から。

練馬区の体験農園が今月から使える事になり、
最初の2週間ばかりは石灰や堆肥をいれたり、耕したり、
ひたすら土を肥やしていたんだけれども、
このあいだの週末に初めて何種類かの種を植えた。
ミニごぼう、にんじん、サラダキャベツ、じゃがいも、カブ、
それに園芸店から買ってきたハーブの苗を何種類か。

天気予報を観ながら雨が降るのを待って植えたつもりだったのだけど、
その夜は嘘みたいな春の嵐が吹き荒れて、
植え付けたばかりの小さな命を根こそぎもっていかれはしまいかと、
さんざん不安な気持ちで朝を迎えました。

起きてさっそく畑に向かってみると、
種は風に飛ばされたんだかどうだか、これはわからないんですけど、
ミントの苗がビニールロープでぐるぐる巻きにされていました。
けっこうな数の人たちが、自分の畑と隣との境を明示するために
畑の四隅をビニールロープで囲んでいるのですが、
その余りがたるんでいたのでしょうか、昨夜の恐ろしい強風で
四方八方に暴れた結果、手近にあったうちのミントの苗に巻き付き、
それはまるで意志をもっていたかのように
いくつもの結び目まで作って、か弱い苗を縛りあげていました。
その姿があまりに痛々しくて、ああ、これはやっぱり
命を育てているのだな、という感慨を新たに持ちました。
実際に畑を始める前は、
自分の畑で作るのとスーパーで買うのと、
どっちが安いかあるいはおいしいかとか、
そういう量や質の概念で単純比較をやっていたんですけど、
実際何かを育てるっていうのはそういうものを飛び越えて、
何か心に大きく作用するものだぞ、という予感を
今は強く持っています。

とはいえ、まだ育てるなんて事を云々するほど
畑に馴染んだわけではないので、
あまり語ると薄っぺらくなってしまいますね。
薄っぺらくともことさら大げさに
語ってしまう癖が自分にはあるのです。


最近、夢の世界がやけに活気づいている。
もともと僕の夢は冒険をしたり特殊な能力を持っていたり、
いわゆる少年漫画的な色合いが強くて、
物語のアイデアを持ち帰ってくる事が多いのだけど、
最近はその傾向に拍車がかかっている。
また、歌を持ち帰る夢も増えている。
持ち帰るっていう言い方は比喩ではなくて、
実際に夢の中である程度意識が働いていて、
あ、これは映画のネタになるな、とか、
このメロディは目が覚めるまで忘れないように
繰り返し歌っていよう、とか、
そういう具合にして起きる瞬間までイメージを保持するのである。
そして、枕元においてあるネタ帳に書き付けるか、
メロディなら携帯電話の録音機能で吹き込むといった具合だ。
個々のアイデアとしてはとても面白い設定が多いけれど、
それらを一つの物語に紡ぎあげる作業は大変だ。
いつだって意識が無意識に劣等感を抱いてしまう。

その点、メロディの方は比較的そのまま使えるから嬉しい。
特に夢から持ち帰った歌詞のある歌っていうのは、すごく興味深い。
覚めた意識では選ばないような言葉使いであったり、
あけすけな気持ちであったり、
知らないつもりの外国の言葉が歌詞に入っていて、
起きてから意味を調べると歌の内容にぴたりとはまっていたり、
それがメロディと同時に生まれてくるから、本当に不思議だ。
といっても一曲丸ごと持ち帰るのではなく、
大抵は印象的なサビだったり、歌いだしの何フレーズだけだったり
するので、それを一つの曲に仕立てるにはやっぱり
物語と同じように、覚めた状態で紡いでいかなくては
いけないのだけれど。

こうした行為は、無意識という宝物庫に忍び込むコソ泥のような
感じがしないでもないし、夢の本来の機能
(それは所詮、推量でしか語れないものではあるけれど)
を阻害しているような気もするけど、
とにかく、自分にとってすごく興味深いものであり、自分はそれを
持ち帰らずにはいられないのだ。
でもこれって、成功や名誉に対する欲求が、自分の本来の能力を
押し殺しているのかもしれなくて、つまり、
そうしたイメージを持ち帰ろうという意識を持たなければ、
そうした物語やメロディは夢の中でさらにさらに発展していって、
起きたときにはさっぱり忘れているとしても、
その夢の中では貴重な体験ができるのかもしれない。

考えてみれば、こうした葛藤は自分にとって、
撮るという行為に根ざした逃れがたい
イメージであった事を思い出す。
自分の文章にリンクを貼るのも少し気が引けるが、
かつて見たこんな夢(2006.10.13の文章)に象徴的に語られているテーマだ。
夢はやはり鋭い。

五十嵐大介の漫画に、
決してそこにあるものを持ち帰ってはならないという条件つきで、
この世のものとは思えない美しい島を訪れた少女が、
ついその誓いを忘れて、貝殻だったか、
ごくささいなものをその島から持ち出してしまい、
やがて超自然的な力によって罰せられる、という物語があった。
こうしたモチーフは、世界各地の神話や民話に
埋もれているのではないだろうか。
それは完全な推量なのだけど、
どうもそういう気がしてならない。
それは言ってみれば人間の意識と無意識の関係における、
ある種の元型であり得る気がする。

かつて、ある歳から自分が死ぬまでに見た夢の全てを
記録に残した坊さんがいたらしい。
室町時代だったかな、名前は今軽く調べても見つからなかったの
だけど、後世の人にとって、そうした歴史のかなたの時代における、
個人の無意識にアクセスできる資料が残された事は
たぶんかなり有意義な事なのだろうと思うけど、
本人にとって、それは、どういう意味を持っていたのだろう。
意識や感情のアルバムとして、たびたび振り返る事で
その追体験を楽しみながら、新たな発見をしたり、
自己に対する深い洞察を得たりしていたのだろうか。

自分もやってみたいと思う気持ちが強いけれど、
一方でかいま見た無意識の全てを紙の上に確定してしまうと
いうのは、なんだか空恐ろしい気もする。
やはり人に見せたくはない、それゆえに夢の中でことさら
強調されるような自分の持つ要素を、
紙に書く事で人に見られ得るというのが恐ろしいし、
自分で直視する事になるのも、躊躇する所だ。

これはある友人が語っていた言葉なんだけれど、
やはり、無意識に触れるときには、優しく、
優しく触れるべきなんだと思う。


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