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SunSugarSonBlog Page 5
相模湖だより
パートナーと共に相模湖に引っ越して
約一ヶ月が経った。
山と湖に挟まれた田舎暮らしは
想像していたものよりずっと楽しく、
日々の暮らしにエネルギーを注ぎすぎてしまうのか、
中々ブログを書こうという気になれない。
でもあんまり放置しているのも、
なんだかなあという事で、
近況報告してみます。
生活のリズムが出来てきた事。
朝は7時から8時位に目覚める。
まだ涼しいうちに畑をいじる。
というか、開墾する。
元々畑だった土地を、東京オリンピックの年に
造成したらしい。
だがこの町は土地のオーナーが予想したようには
発展せず、長年放置されていた土地は今再び、
我々の手で畑に戻されているというわけ。
造成地なのででかい石がごろごろ入っていて、
ふかふかの畑にするには相当な根気が必要なのだけど、
物事を一から始めるというのは楽しいものだ。
今はだいたい、六畳ぶんほどが畑になっただろうか。
畑については書きたい事が山のようにあるので、
これは追々書いていこうと思う。
朝食を食べて、だいたい午前中は
映像編集にあてる。
作業の合間に、こまめに目を休めるため、
窓越しに遠くの山を見やる。
緑が段々と深くなってきている。
こんな場所で編集した映像を、
瞬時に東京のクライアントに確認してもらえる
のだから、インターネットの発展には
本当に助けられているというか、
いまだに驚きに近い感情を持つ事しばしば。
昼食を食べてしばし休息。
余裕のある時は、
午後の時間をさまざまな事に使う。
登山道までは歩いて10分以内。
さすがに午後から山頂を目指して登る事は少ないが、
ちょっとした素材や山菜を探したり、
辿ったことのないルートを開拓したり、
あるいは湖のほうへぷらりと行ったり。
相模湖畔のレジャー施設は、
射的や足こぎボートなど、
昭和の隆盛期のラインナップそのままで、
いつ行っても閑散としている。
なんとも言えない味がある場所です。
この間、目の前に突然魚が降ってきた。
トンビが獲物を落としたらしい。
動物って、ぱっと見た所、計算されつくした
動きをしているように見えるけど、
案外まぬけだったりする。
猫が塀に飛び上がろうとして上がれなかったりね。
その魚はトンビには降りづらい場所に
落ちてしまったようで、
上空をぐるぐると回りながらも、
一向に拾いに来る気配がない。
トンビは小回りがあまり利かないようだ。
広い場所に魚を動かしてやってしばらく眺めていたら、
音もなくまっすぐに降りてきて、
見事に魚をつかんで飛び去っていった。
ああいう動きを見ると、
とても魚を落としたりしなさそうなんだけどなあ。
そんなトンビは、時々カラスにいじめられている。
トンビの方が大きくて強そうに見えるのだが、
口ばしが大きく小回りも利くカラスの方が、
空中戦は得意なのかもしれない。
トンビは一旦飛び立つと、
あまりはばたく事はせずに風にのって
滑るように飛ぶのだが、
カラスはそんなトンビを上から下からつっつく。
トンビはピーヒョロいいながら逃げる。
時々後ろを取ったりもするけれど。
そんなカラスは、オナガにいじめられている。
向かいの家の庭木に、オナガが巣を作ったと見えて、
畑をパトロール中のカラスが木に近づくと、
ゲーゲー鳴いて頭上に急降下攻撃を繰り返すのだ。
これまた、オナガの方がずっと体が小さいのに。
この場合は、カラスは最初うるさそうにしながらも、
畑のえさを探して粘るのだが、
さすがに何度もやられるとうんざりするのか、
その内に飛び去っていく。
こういう風景を見るのは、
なぜかしら愉快な所がある。
ハブ対マングースの見世物とか、
ああいうのはすごく悪趣味だと思うのだけど、
やはり動物同士が戦っているのをみると
どこかしら興奮するものがあるんだなあ。
本能、というやつでしょうか。
動物の事になったらずいぶん話が逸れてしまった。
動物については書きたい事が
たくさんあるのだと実感。
毎日発見の連続だからだろうな。
これもまた日を改めて書こう。
夕方、涼しくなると再び畑仕事をやりだす。
石だらけの土地に雑草がしっかり根を張っているので、
スコップで掘り起こすのも重労働だ。
しょっちゅう、カツーンという音が響く。
大抵くたくたになるまで体を使ってから、
家の中へ入る。
この作業のおかげで腹も減るし、
夜もぐっすり眠れるのだと思うとありがたい。
何より充実感がある。
現金収入になるものではないけれど、
実ったものを収穫して食べる日が楽しみだ。
夕食を作って食べて、フロに入って、
大体11時ごろには眠りにつく。
毎食自炊というのもあるけれど、
生活のための労働にかなりの時間を割いている。
そういう事の全てが、
心身の健康に結びついているような気がする。
まあとにかく、元気になってきました。
この場所から、また新たな作品を
生み出せるのでしょうか。
30日には、家具職人さんの自宅兼アトリエの
新築記念パーティーに、
三十日鳥さんと一緒に出演します。
今回も音担当。
会場は釘を使わない昔ながらの組木で出来た家。
すごく気持ちのいい場所です。
詳細はコチラ
そうそう、三十日鳥で思い出したけれども、
前回アップしたエイシャキという作品、
全体的にヒキでの撮影なんで、
僕の作った8mm映像なんてほとんど
見えないんですけど、
せっかくなんで付記しておくと、
青いノイズのような映像は現像済みの8mmフィルムを
コインで削ったもので、
最後の水玉は削りまくって透明になった
フィルムに、歯ブラシで蛍光インクを
飛ばしまくった人力アニメーションでした。
普通に撮影した映像が光量不足で、
照明代わりには到底なれなかったので、
苦し紛れに発明したアイデアです。
イメージ○ォーラム的な実験フィルムを
作ってみました、というマニアックな報告でした。
約一ヶ月が経った。
山と湖に挟まれた田舎暮らしは
想像していたものよりずっと楽しく、
日々の暮らしにエネルギーを注ぎすぎてしまうのか、
中々ブログを書こうという気になれない。
でもあんまり放置しているのも、
なんだかなあという事で、
近況報告してみます。
生活のリズムが出来てきた事。
朝は7時から8時位に目覚める。
まだ涼しいうちに畑をいじる。
というか、開墾する。
元々畑だった土地を、東京オリンピックの年に
造成したらしい。
だがこの町は土地のオーナーが予想したようには
発展せず、長年放置されていた土地は今再び、
我々の手で畑に戻されているというわけ。
造成地なのででかい石がごろごろ入っていて、
ふかふかの畑にするには相当な根気が必要なのだけど、
物事を一から始めるというのは楽しいものだ。
今はだいたい、六畳ぶんほどが畑になっただろうか。
畑については書きたい事が山のようにあるので、
これは追々書いていこうと思う。
朝食を食べて、だいたい午前中は
映像編集にあてる。
作業の合間に、こまめに目を休めるため、
窓越しに遠くの山を見やる。
緑が段々と深くなってきている。
こんな場所で編集した映像を、
瞬時に東京のクライアントに確認してもらえる
のだから、インターネットの発展には
本当に助けられているというか、
いまだに驚きに近い感情を持つ事しばしば。
昼食を食べてしばし休息。
余裕のある時は、
午後の時間をさまざまな事に使う。
登山道までは歩いて10分以内。
さすがに午後から山頂を目指して登る事は少ないが、
ちょっとした素材や山菜を探したり、
辿ったことのないルートを開拓したり、
あるいは湖のほうへぷらりと行ったり。
相模湖畔のレジャー施設は、
射的や足こぎボートなど、
昭和の隆盛期のラインナップそのままで、
いつ行っても閑散としている。
なんとも言えない味がある場所です。
この間、目の前に突然魚が降ってきた。
トンビが獲物を落としたらしい。
動物って、ぱっと見た所、計算されつくした
動きをしているように見えるけど、
案外まぬけだったりする。
猫が塀に飛び上がろうとして上がれなかったりね。
その魚はトンビには降りづらい場所に
落ちてしまったようで、
上空をぐるぐると回りながらも、
一向に拾いに来る気配がない。
トンビは小回りがあまり利かないようだ。
広い場所に魚を動かしてやってしばらく眺めていたら、
音もなくまっすぐに降りてきて、
見事に魚をつかんで飛び去っていった。
ああいう動きを見ると、
とても魚を落としたりしなさそうなんだけどなあ。
そんなトンビは、時々カラスにいじめられている。
トンビの方が大きくて強そうに見えるのだが、
口ばしが大きく小回りも利くカラスの方が、
空中戦は得意なのかもしれない。
トンビは一旦飛び立つと、
あまりはばたく事はせずに風にのって
滑るように飛ぶのだが、
カラスはそんなトンビを上から下からつっつく。
トンビはピーヒョロいいながら逃げる。
時々後ろを取ったりもするけれど。
そんなカラスは、オナガにいじめられている。
向かいの家の庭木に、オナガが巣を作ったと見えて、
畑をパトロール中のカラスが木に近づくと、
ゲーゲー鳴いて頭上に急降下攻撃を繰り返すのだ。
これまた、オナガの方がずっと体が小さいのに。
この場合は、カラスは最初うるさそうにしながらも、
畑のえさを探して粘るのだが、
さすがに何度もやられるとうんざりするのか、
その内に飛び去っていく。
こういう風景を見るのは、
なぜかしら愉快な所がある。
ハブ対マングースの見世物とか、
ああいうのはすごく悪趣味だと思うのだけど、
やはり動物同士が戦っているのをみると
どこかしら興奮するものがあるんだなあ。
本能、というやつでしょうか。
動物の事になったらずいぶん話が逸れてしまった。
動物については書きたい事が
たくさんあるのだと実感。
毎日発見の連続だからだろうな。
これもまた日を改めて書こう。
夕方、涼しくなると再び畑仕事をやりだす。
石だらけの土地に雑草がしっかり根を張っているので、
スコップで掘り起こすのも重労働だ。
しょっちゅう、カツーンという音が響く。
大抵くたくたになるまで体を使ってから、
家の中へ入る。
この作業のおかげで腹も減るし、
夜もぐっすり眠れるのだと思うとありがたい。
何より充実感がある。
現金収入になるものではないけれど、
実ったものを収穫して食べる日が楽しみだ。
夕食を作って食べて、フロに入って、
大体11時ごろには眠りにつく。
毎食自炊というのもあるけれど、
生活のための労働にかなりの時間を割いている。
そういう事の全てが、
心身の健康に結びついているような気がする。
まあとにかく、元気になってきました。
この場所から、また新たな作品を
生み出せるのでしょうか。
30日には、家具職人さんの自宅兼アトリエの
新築記念パーティーに、
三十日鳥さんと一緒に出演します。
今回も音担当。
会場は釘を使わない昔ながらの組木で出来た家。
すごく気持ちのいい場所です。
詳細はコチラ
そうそう、三十日鳥で思い出したけれども、
前回アップしたエイシャキという作品、
全体的にヒキでの撮影なんで、
僕の作った8mm映像なんてほとんど
見えないんですけど、
せっかくなんで付記しておくと、
青いノイズのような映像は現像済みの8mmフィルムを
コインで削ったもので、
最後の水玉は削りまくって透明になった
フィルムに、歯ブラシで蛍光インクを
飛ばしまくった人力アニメーションでした。
普通に撮影した映像が光量不足で、
照明代わりには到底なれなかったので、
苦し紛れに発明したアイデアです。
イメージ○ォーラム的な実験フィルムを
作ってみました、というマニアックな報告でした。
コーディング始めました
ひょんな事から父親の経営する
珠算塾のサイトを作る事になった。
コーディングという分野は今まで避けて
通ってきた感があるから、
身に着けてしまうにはちょうどいい機会だと
思ったのである。
そういうわけで仕事の合間を見て、
異世界の言語に取り組んでいるわけであるが、
これが恐ろしく疲れる。
映像の撮影、編集という分野は
自分が10年来付き合ってきたものだから、
作業時間がいくら長くても
集中している限りは乗り切れるのだが、
(無論、肉体的にはすごく疲れるけれども)
こういう慣れない分野を一から学ぶっていうのは、
ごく簡単な事が全然できなかったりして、
精神的にだいぶ疲弊するのだ。
使い方のさっぱりわからないアプリケーションで
作業するのと非常に似ている。
ここで投げ出したくなる気持ちをなだめて、
なんとか解り始めてしまえば、
のど元過ぎればなんとやらで
逆に面白くなってきたりもするんだろうけど。
掛け算九九の暗記という段階で
算数が嫌いになってしまったら、
数学の面白さまでたどり着けないもんなあ。
モチベーションを奮い起こして
がんばるのである。
だってコーディングができるようになれば、
映像の仕事なんてほとんどない南の島に
移住したとしても、
どうにか食っていけるであろうから。
ぐふふ。
珠算塾のサイトを作る事になった。
コーディングという分野は今まで避けて
通ってきた感があるから、
身に着けてしまうにはちょうどいい機会だと
思ったのである。
そういうわけで仕事の合間を見て、
異世界の言語に取り組んでいるわけであるが、
これが恐ろしく疲れる。
映像の撮影、編集という分野は
自分が10年来付き合ってきたものだから、
作業時間がいくら長くても
集中している限りは乗り切れるのだが、
(無論、肉体的にはすごく疲れるけれども)
こういう慣れない分野を一から学ぶっていうのは、
ごく簡単な事が全然できなかったりして、
精神的にだいぶ疲弊するのだ。
使い方のさっぱりわからないアプリケーションで
作業するのと非常に似ている。
ここで投げ出したくなる気持ちをなだめて、
なんとか解り始めてしまえば、
のど元過ぎればなんとやらで
逆に面白くなってきたりもするんだろうけど。
掛け算九九の暗記という段階で
算数が嫌いになってしまったら、
数学の面白さまでたどり着けないもんなあ。
モチベーションを奮い起こして
がんばるのである。
だってコーディングができるようになれば、
映像の仕事なんてほとんどない南の島に
移住したとしても、
どうにか食っていけるであろうから。
ぐふふ。
砂絵
久しぶりにYouTubeでおおっと思った
動画があったので貼付けます。
ウクライナのアーティストでKseniya Simonovaさん。
Wikipediaによれば2008年の経済危機で事業が破綻し、
それから1年足らずの修行でこの技術を身につけ、
2009年、ウクライナのTV番組に初出演、見事優勝し
賞金約125,000米ドルを獲得した、との事です。
とても1年で身につけたとは思えない早業。
迷いのない線のひきかた。
きっと、子供のころから、
こういう遊びに夢中だったのではないか、
保存、記録されるための絵ではなく、
今この瞬間に創造する喜び、それだけのための、
刹那的な絵画。
まあ題材や衣裳、パフォーマンスの見せ方など
かなりうまい人なので、
自分で事業やってたって言うし、
そんなビジネス的才覚で持って
賞金獲得を目指し技術習得に励んだのかもしれないけど、
あんまりそうは思いたくないなあ。
それにしても観客の涙に対し、
ゲストの涙はなんと嘘くさい事だろう。
動画があったので貼付けます。
ウクライナのアーティストでKseniya Simonovaさん。
Wikipediaによれば2008年の経済危機で事業が破綻し、
それから1年足らずの修行でこの技術を身につけ、
2009年、ウクライナのTV番組に初出演、見事優勝し
賞金約125,000米ドルを獲得した、との事です。
とても1年で身につけたとは思えない早業。
迷いのない線のひきかた。
きっと、子供のころから、
こういう遊びに夢中だったのではないか、
保存、記録されるための絵ではなく、
今この瞬間に創造する喜び、それだけのための、
刹那的な絵画。
まあ題材や衣裳、パフォーマンスの見せ方など
かなりうまい人なので、
自分で事業やってたって言うし、
そんなビジネス的才覚で持って
賞金獲得を目指し技術習得に励んだのかもしれないけど、
あんまりそうは思いたくないなあ。
それにしても観客の涙に対し、
ゲストの涙はなんと嘘くさい事だろう。
認められる事
ようやく春らしくなった。
いくつか同時進行していた仕事が一段落して、
珍しく早めの時間に目が覚めた。
何に時間を使おうかと考えて過ごせる午前中というのは
とてもすばらしいと思う。
みそ汁の大根を余熱で煮ながら、
その時間で少し書いてみようと思った。
今日は新しい家を下見に行く予定。
また引っ越すのだ。
引っ越しの妖精が憑いてるんじゃないかと思うほどの
引っ越しの頻度なのだが、
これでしばらくは落ち着くと思う。
たぶん東京の西の方、自然に近くて、
都心にも出られる距離の所になるだろう。
今日は久しぶりに胸の内が疼いた。
同年代の友人がメディアに評価されている記事を見つけて、
ありていに言えば嫉妬心と焦燥心が顔をのぞかせたのだ。
最近はだいぶ暮らしが落ち着き、
仕事もいいペースでこなせるようになってきたから、
経済的にも安定してきて、
憂鬱な気分に飲み込まれて動けないような事は
ほとんどなくなったと言っていい。
反面、作るという事への渇望を感じる事も少なくなっていた。
新しい映画のアイデアを書きためるノートは、
去年1年で一冊半ほど進んだのだけど、
この何ヶ月かほとんど開いていない。
ギターも弾くには弾くけれど、
夢中になって時間を忘れるような弾き方ではない。
飢えと想像力のバランスというものがあるのだろうか。
地元から東京に出てきた頃は、
自分の未熟さなどほとんど知らず、
恐れを知らぬが故に創る事は容易かった気がする。
もちろんクオリティの至らないものが
ほとんどであったかもしれない。
それでも、すごい瞬発力だったなあと、
今振り返ってみて思うのだ。
思いつくのも早かったし、
実行に移すのも早かった。
認められたくて仕方がなかったんだと思う。
認められたいという気持ちに
恥ずかしさを感じるようになった事、
それは幸か不幸か。
こういう思考を始めたときに、
頭をよぎる二つの作品がある。
正確に言えばその中の一節。
一つは中島敦の『山月記』。
終盤、虎に身を落とした主人公の李徴は、
旧友に自分の心情を吐露しこう語る。
「己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。」
もう一つは、サリンジャーのフラニーとゾーイーから。
これは手元に本もないので記憶に頼るんだけど、
母親がゾーイーに向かってこんな内容の事を言う。
「知性だ感性だとか、そんなものを磨きに磨いてナイフみたいに鋭くなったって、それで幸せになれなかったら何の意味があるんだい?」
この2作品に自分の心情を重ねる事自体がすでに
傲慢な気もするけれども、、、(2作品の主人公、
李徴とゾーイーとは共にとんでもない天才である)
生活と創造とがつながっていけるような道を模索している。
まずは、東京にいる間にバンドをもっとやっておきたくて、
今mixiに音源をアップしてメンバーを募集している。
何人か連絡をくれた人があったので、
近いうちにスタジオに入ってみるつもりだ。
朝飯の支度の途中で長々と書いてしまったので、
もう頭がまわりません。
朝ご飯は大事ですよ、みなさん。
いくつか同時進行していた仕事が一段落して、
珍しく早めの時間に目が覚めた。
何に時間を使おうかと考えて過ごせる午前中というのは
とてもすばらしいと思う。
みそ汁の大根を余熱で煮ながら、
その時間で少し書いてみようと思った。
今日は新しい家を下見に行く予定。
また引っ越すのだ。
引っ越しの妖精が憑いてるんじゃないかと思うほどの
引っ越しの頻度なのだが、
これでしばらくは落ち着くと思う。
たぶん東京の西の方、自然に近くて、
都心にも出られる距離の所になるだろう。
今日は久しぶりに胸の内が疼いた。
同年代の友人がメディアに評価されている記事を見つけて、
ありていに言えば嫉妬心と焦燥心が顔をのぞかせたのだ。
最近はだいぶ暮らしが落ち着き、
仕事もいいペースでこなせるようになってきたから、
経済的にも安定してきて、
憂鬱な気分に飲み込まれて動けないような事は
ほとんどなくなったと言っていい。
反面、作るという事への渇望を感じる事も少なくなっていた。
新しい映画のアイデアを書きためるノートは、
去年1年で一冊半ほど進んだのだけど、
この何ヶ月かほとんど開いていない。
ギターも弾くには弾くけれど、
夢中になって時間を忘れるような弾き方ではない。
飢えと想像力のバランスというものがあるのだろうか。
地元から東京に出てきた頃は、
自分の未熟さなどほとんど知らず、
恐れを知らぬが故に創る事は容易かった気がする。
もちろんクオリティの至らないものが
ほとんどであったかもしれない。
それでも、すごい瞬発力だったなあと、
今振り返ってみて思うのだ。
思いつくのも早かったし、
実行に移すのも早かった。
認められたくて仕方がなかったんだと思う。
認められたいという気持ちに
恥ずかしさを感じるようになった事、
それは幸か不幸か。
こういう思考を始めたときに、
頭をよぎる二つの作品がある。
正確に言えばその中の一節。
一つは中島敦の『山月記』。
終盤、虎に身を落とした主人公の李徴は、
旧友に自分の心情を吐露しこう語る。
「己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。」
もう一つは、サリンジャーのフラニーとゾーイーから。
これは手元に本もないので記憶に頼るんだけど、
母親がゾーイーに向かってこんな内容の事を言う。
「知性だ感性だとか、そんなものを磨きに磨いてナイフみたいに鋭くなったって、それで幸せになれなかったら何の意味があるんだい?」
この2作品に自分の心情を重ねる事自体がすでに
傲慢な気もするけれども、、、(2作品の主人公、
李徴とゾーイーとは共にとんでもない天才である)
生活と創造とがつながっていけるような道を模索している。
まずは、東京にいる間にバンドをもっとやっておきたくて、
今mixiに音源をアップしてメンバーを募集している。
何人か連絡をくれた人があったので、
近いうちにスタジオに入ってみるつもりだ。
朝飯の支度の途中で長々と書いてしまったので、
もう頭がまわりません。
朝ご飯は大事ですよ、みなさん。
夢に関する省察
少し、思うままに書いてみたいので、キーボードに向かう。
最近は、こういう場で何を書くか、事前に練るような事はなるべく
せずに、できる限り即興的に書きたいと思っている。
今自分の中にどういう思いがあって、
それがどのような形で出てくるのか、
書く前はわからなかった事が、書く事でわかったような気がする。
そういう変化を楽しみたいと思う。
でもそれは、楽しむというより、もっと根源的な、
必要に迫られてやっている事のような気もする。
さて、主題になりそうな事柄もとりあえず思いつかないので、
まずは近況報告から。
練馬区の体験農園が今月から使える事になり、
最初の2週間ばかりは石灰や堆肥をいれたり、耕したり、
ひたすら土を肥やしていたんだけれども、
このあいだの週末に初めて何種類かの種を植えた。
ミニごぼう、にんじん、サラダキャベツ、じゃがいも、カブ、
それに園芸店から買ってきたハーブの苗を何種類か。
天気予報を観ながら雨が降るのを待って植えたつもりだったのだけど、
その夜は嘘みたいな春の嵐が吹き荒れて、
植え付けたばかりの小さな命を根こそぎもっていかれはしまいかと、
さんざん不安な気持ちで朝を迎えました。
起きてさっそく畑に向かってみると、
種は風に飛ばされたんだかどうだか、これはわからないんですけど、
ミントの苗がビニールロープでぐるぐる巻きにされていました。
けっこうな数の人たちが、自分の畑と隣との境を明示するために
畑の四隅をビニールロープで囲んでいるのですが、
その余りがたるんでいたのでしょうか、昨夜の恐ろしい強風で
四方八方に暴れた結果、手近にあったうちのミントの苗に巻き付き、
それはまるで意志をもっていたかのように
いくつもの結び目まで作って、か弱い苗を縛りあげていました。
その姿があまりに痛々しくて、ああ、これはやっぱり
命を育てているのだな、という感慨を新たに持ちました。
実際に畑を始める前は、
自分の畑で作るのとスーパーで買うのと、
どっちが安いかあるいはおいしいかとか、
そういう量や質の概念で単純比較をやっていたんですけど、
実際何かを育てるっていうのはそういうものを飛び越えて、
何か心に大きく作用するものだぞ、という予感を
今は強く持っています。
とはいえ、まだ育てるなんて事を云々するほど
畑に馴染んだわけではないので、
あまり語ると薄っぺらくなってしまいますね。
薄っぺらくともことさら大げさに
語ってしまう癖が自分にはあるのです。
最近、夢の世界がやけに活気づいている。
もともと僕の夢は冒険をしたり特殊な能力を持っていたり、
いわゆる少年漫画的な色合いが強くて、
物語のアイデアを持ち帰ってくる事が多いのだけど、
最近はその傾向に拍車がかかっている。
また、歌を持ち帰る夢も増えている。
持ち帰るっていう言い方は比喩ではなくて、
実際に夢の中である程度意識が働いていて、
あ、これは映画のネタになるな、とか、
このメロディは目が覚めるまで忘れないように
繰り返し歌っていよう、とか、
そういう具合にして起きる瞬間までイメージを保持するのである。
そして、枕元においてあるネタ帳に書き付けるか、
メロディなら携帯電話の録音機能で吹き込むといった具合だ。
個々のアイデアとしてはとても面白い設定が多いけれど、
それらを一つの物語に紡ぎあげる作業は大変だ。
いつだって意識が無意識に劣等感を抱いてしまう。
その点、メロディの方は比較的そのまま使えるから嬉しい。
特に夢から持ち帰った歌詞のある歌っていうのは、すごく興味深い。
覚めた意識では選ばないような言葉使いであったり、
あけすけな気持ちであったり、
知らないつもりの外国の言葉が歌詞に入っていて、
起きてから意味を調べると歌の内容にぴたりとはまっていたり、
それがメロディと同時に生まれてくるから、本当に不思議だ。
といっても一曲丸ごと持ち帰るのではなく、
大抵は印象的なサビだったり、歌いだしの何フレーズだけだったり
するので、それを一つの曲に仕立てるにはやっぱり
物語と同じように、覚めた状態で紡いでいかなくては
いけないのだけれど。
こうした行為は、無意識という宝物庫に忍び込むコソ泥のような
感じがしないでもないし、夢の本来の機能
(それは所詮、推量でしか語れないものではあるけれど)
を阻害しているような気もするけど、
とにかく、自分にとってすごく興味深いものであり、自分はそれを
持ち帰らずにはいられないのだ。
でもこれって、成功や名誉に対する欲求が、自分の本来の能力を
押し殺しているのかもしれなくて、つまり、
そうしたイメージを持ち帰ろうという意識を持たなければ、
そうした物語やメロディは夢の中でさらにさらに発展していって、
起きたときにはさっぱり忘れているとしても、
その夢の中では貴重な体験ができるのかもしれない。
考えてみれば、こうした葛藤は自分にとって、
撮るという行為に根ざした逃れがたい
イメージであった事を思い出す。
自分の文章にリンクを貼るのも少し気が引けるが、
かつて見たこんな夢(2006.10.13の文章)に象徴的に語られているテーマだ。
夢はやはり鋭い。
五十嵐大介の漫画に、
決してそこにあるものを持ち帰ってはならないという条件つきで、
この世のものとは思えない美しい島を訪れた少女が、
ついその誓いを忘れて、貝殻だったか、
ごくささいなものをその島から持ち出してしまい、
やがて超自然的な力によって罰せられる、という物語があった。
こうしたモチーフは、世界各地の神話や民話に
埋もれているのではないだろうか。
それは完全な推量なのだけど、
どうもそういう気がしてならない。
それは言ってみれば人間の意識と無意識の関係における、
ある種の元型であり得る気がする。
かつて、ある歳から自分が死ぬまでに見た夢の全てを
記録に残した坊さんがいたらしい。
室町時代だったかな、名前は今軽く調べても見つからなかったの
だけど、後世の人にとって、そうした歴史のかなたの時代における、
個人の無意識にアクセスできる資料が残された事は
たぶんかなり有意義な事なのだろうと思うけど、
本人にとって、それは、どういう意味を持っていたのだろう。
意識や感情のアルバムとして、たびたび振り返る事で
その追体験を楽しみながら、新たな発見をしたり、
自己に対する深い洞察を得たりしていたのだろうか。
自分もやってみたいと思う気持ちが強いけれど、
一方でかいま見た無意識の全てを紙の上に確定してしまうと
いうのは、なんだか空恐ろしい気もする。
やはり人に見せたくはない、それゆえに夢の中でことさら
強調されるような自分の持つ要素を、
紙に書く事で人に見られ得るというのが恐ろしいし、
自分で直視する事になるのも、躊躇する所だ。
これはある友人が語っていた言葉なんだけれど、
やはり、無意識に触れるときには、優しく、
優しく触れるべきなんだと思う。
最近は、こういう場で何を書くか、事前に練るような事はなるべく
せずに、できる限り即興的に書きたいと思っている。
今自分の中にどういう思いがあって、
それがどのような形で出てくるのか、
書く前はわからなかった事が、書く事でわかったような気がする。
そういう変化を楽しみたいと思う。
でもそれは、楽しむというより、もっと根源的な、
必要に迫られてやっている事のような気もする。
さて、主題になりそうな事柄もとりあえず思いつかないので、
まずは近況報告から。
練馬区の体験農園が今月から使える事になり、
最初の2週間ばかりは石灰や堆肥をいれたり、耕したり、
ひたすら土を肥やしていたんだけれども、
このあいだの週末に初めて何種類かの種を植えた。
ミニごぼう、にんじん、サラダキャベツ、じゃがいも、カブ、
それに園芸店から買ってきたハーブの苗を何種類か。
天気予報を観ながら雨が降るのを待って植えたつもりだったのだけど、
その夜は嘘みたいな春の嵐が吹き荒れて、
植え付けたばかりの小さな命を根こそぎもっていかれはしまいかと、
さんざん不安な気持ちで朝を迎えました。
起きてさっそく畑に向かってみると、
種は風に飛ばされたんだかどうだか、これはわからないんですけど、
ミントの苗がビニールロープでぐるぐる巻きにされていました。
けっこうな数の人たちが、自分の畑と隣との境を明示するために
畑の四隅をビニールロープで囲んでいるのですが、
その余りがたるんでいたのでしょうか、昨夜の恐ろしい強風で
四方八方に暴れた結果、手近にあったうちのミントの苗に巻き付き、
それはまるで意志をもっていたかのように
いくつもの結び目まで作って、か弱い苗を縛りあげていました。
その姿があまりに痛々しくて、ああ、これはやっぱり
命を育てているのだな、という感慨を新たに持ちました。
実際に畑を始める前は、
自分の畑で作るのとスーパーで買うのと、
どっちが安いかあるいはおいしいかとか、
そういう量や質の概念で単純比較をやっていたんですけど、
実際何かを育てるっていうのはそういうものを飛び越えて、
何か心に大きく作用するものだぞ、という予感を
今は強く持っています。
とはいえ、まだ育てるなんて事を云々するほど
畑に馴染んだわけではないので、
あまり語ると薄っぺらくなってしまいますね。
薄っぺらくともことさら大げさに
語ってしまう癖が自分にはあるのです。
最近、夢の世界がやけに活気づいている。
もともと僕の夢は冒険をしたり特殊な能力を持っていたり、
いわゆる少年漫画的な色合いが強くて、
物語のアイデアを持ち帰ってくる事が多いのだけど、
最近はその傾向に拍車がかかっている。
また、歌を持ち帰る夢も増えている。
持ち帰るっていう言い方は比喩ではなくて、
実際に夢の中である程度意識が働いていて、
あ、これは映画のネタになるな、とか、
このメロディは目が覚めるまで忘れないように
繰り返し歌っていよう、とか、
そういう具合にして起きる瞬間までイメージを保持するのである。
そして、枕元においてあるネタ帳に書き付けるか、
メロディなら携帯電話の録音機能で吹き込むといった具合だ。
個々のアイデアとしてはとても面白い設定が多いけれど、
それらを一つの物語に紡ぎあげる作業は大変だ。
いつだって意識が無意識に劣等感を抱いてしまう。
その点、メロディの方は比較的そのまま使えるから嬉しい。
特に夢から持ち帰った歌詞のある歌っていうのは、すごく興味深い。
覚めた意識では選ばないような言葉使いであったり、
あけすけな気持ちであったり、
知らないつもりの外国の言葉が歌詞に入っていて、
起きてから意味を調べると歌の内容にぴたりとはまっていたり、
それがメロディと同時に生まれてくるから、本当に不思議だ。
といっても一曲丸ごと持ち帰るのではなく、
大抵は印象的なサビだったり、歌いだしの何フレーズだけだったり
するので、それを一つの曲に仕立てるにはやっぱり
物語と同じように、覚めた状態で紡いでいかなくては
いけないのだけれど。
こうした行為は、無意識という宝物庫に忍び込むコソ泥のような
感じがしないでもないし、夢の本来の機能
(それは所詮、推量でしか語れないものではあるけれど)
を阻害しているような気もするけど、
とにかく、自分にとってすごく興味深いものであり、自分はそれを
持ち帰らずにはいられないのだ。
でもこれって、成功や名誉に対する欲求が、自分の本来の能力を
押し殺しているのかもしれなくて、つまり、
そうしたイメージを持ち帰ろうという意識を持たなければ、
そうした物語やメロディは夢の中でさらにさらに発展していって、
起きたときにはさっぱり忘れているとしても、
その夢の中では貴重な体験ができるのかもしれない。
考えてみれば、こうした葛藤は自分にとって、
撮るという行為に根ざした逃れがたい
イメージであった事を思い出す。
自分の文章にリンクを貼るのも少し気が引けるが、
かつて見たこんな夢(2006.10.13の文章)に象徴的に語られているテーマだ。
夢はやはり鋭い。
五十嵐大介の漫画に、
決してそこにあるものを持ち帰ってはならないという条件つきで、
この世のものとは思えない美しい島を訪れた少女が、
ついその誓いを忘れて、貝殻だったか、
ごくささいなものをその島から持ち出してしまい、
やがて超自然的な力によって罰せられる、という物語があった。
こうしたモチーフは、世界各地の神話や民話に
埋もれているのではないだろうか。
それは完全な推量なのだけど、
どうもそういう気がしてならない。
それは言ってみれば人間の意識と無意識の関係における、
ある種の元型であり得る気がする。
かつて、ある歳から自分が死ぬまでに見た夢の全てを
記録に残した坊さんがいたらしい。
室町時代だったかな、名前は今軽く調べても見つからなかったの
だけど、後世の人にとって、そうした歴史のかなたの時代における、
個人の無意識にアクセスできる資料が残された事は
たぶんかなり有意義な事なのだろうと思うけど、
本人にとって、それは、どういう意味を持っていたのだろう。
意識や感情のアルバムとして、たびたび振り返る事で
その追体験を楽しみながら、新たな発見をしたり、
自己に対する深い洞察を得たりしていたのだろうか。
自分もやってみたいと思う気持ちが強いけれど、
一方でかいま見た無意識の全てを紙の上に確定してしまうと
いうのは、なんだか空恐ろしい気もする。
やはり人に見せたくはない、それゆえに夢の中でことさら
強調されるような自分の持つ要素を、
紙に書く事で人に見られ得るというのが恐ろしいし、
自分で直視する事になるのも、躊躇する所だ。
これはある友人が語っていた言葉なんだけれど、
やはり、無意識に触れるときには、優しく、
優しく触れるべきなんだと思う。
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